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まむちみ

まむちみ

〇皆さん、お墓を移したことがありますか。家も3年前に山形県のとある山奥から山形市に動かしました。父母の一大作業だったようです。

〇まずは手順としては本家に許可を得に行きます。次に墓地を管理する組合さんの許可を得にいきます。組合長がどこの誰かを調べるのに、その町の役場に行き、その人にあって事情を話す必要があります。次に墓守さんに事情を話しに行き、これまでの感謝を伝えるそうです。ここまでしてはじめて新しい墓地にお墓を建てます。大変ですね。

〇うちもその手順を踏んだようですが、墓守さんにあった時の話を聞きました。内容はこうです。「自分の先祖はずっとお宅の組下にいた。ここに来てから400年、ずっとお宅の墓守をしてきた。」と。そして以下の話が続きます。

〇「組」というのは、上杉家の軍事システムです。うちの本家の場合、32の「組下衆」の家があり、戦争になると、ここから50人ほど集めて弓や槍で武装させ、米沢の上司の家に行く「組頭」という役目です。上司の「侍頭」は何名かの組頭とその兵を束ねてどこぞの「家臣」へ、家臣は「殿様」へ、とピラミッド式の命令系統になります。これにより越後時代と同じ動員兵力、2万5千~3万を保持することができました。

〇ちなみに「組頭」以下の人たちは上杉家から給料が出ません。自給自足です。農家やったり商売やったり、普通に仕事をして食べています。うちの場合も例外にもれず祖父の代までずっと村医でした。それだけでは食べていけなかったので、山を歩いて薬草を採って売ったり、田んぼを貸して年貢をもらったり、借家を建てて家賃をもらったりしてほそぼそと食いつないできた、と聞いてます。それでも侍頭よりはましだった、と聞きます。

〇侍頭は副業を禁止され、給料も少ないため借金苦で火の車だった、と聞きます。本家の上司の侍頭の家の場合は、借金苦に米沢の屋敷を売り、うちの本家に逃げ込んできたので、借家住まいをさせたそうです。家を売り、刀を売り、誇りを捨て、部下に養われました。それでもましな方で、部下もみな貧しければ寄る場すらありませんでした。あとは一家離散と夜逃げが待つだけです。戦国最強と言われた越後武士団も、平和な江戸時代には「不要な軍事力」「不要な人材」となりました。それでも「組システム」を捨てなかった上杉は日本屈指の極貧藩となり、それは幕末まで続きました。

〇墓守の方も最近なくなったのか、本家の墓地は荒れ放題になっています。そのうち原野に戻るような気がします。

〇私もそうなんですが、自分ちのご先祖ってよくわかりません。ほとんどの日本人がそうだと思います。でも荒れ放題の本家のお墓を見て思います。「そのうち何にもわかんなくなるぞ。」と。私の孫くらいの代には「山形県の置賜地方のえらい田舎」からやってきたことすら分からなくなります。

〇じゃ、「先祖が分かってなんか得するのか?」というと、なにも得しませんし何も変わらないでしょう。でも、今少しでも手掛かりが残ってるうちじゃないと探せない。探しても面白いんじゃないか、と思います。今日から休日、気が向いたらはじめよう、と考えました。

〇手掛かりはほとんどないですね。家系図の写しが1本。それを頼りに行くしかないです。家系図は西暦でいうと1513年に「伊達稙宗より招聘」からはじまっています。伊達稙宗は伊達政宗の「ひい爺ちゃん」です。まずは福島県伊達市です。

〇もちろんバイクで楽しみます。そっちが主流といっていいでしょう。美味いものを食い、散歩する。堂々と、大義名分をもって、です。妻も今回は素直に承諾。「ご先祖さがしねえ・・・ま、みつかんないだろうけど、いいんじゃない?」妻の実家は、我が家と違い上杉侍の中でも素性がはっきりしている旧家です。「一汁一菜」「なせば成る」的気風がいまだに漂う妻の実家。昔なら「ぎゃくたま婚」です。ご先祖の血が騒ぐのか、私を敷きまくりです。朝起こすときなどは、振りかぶって面打ちで私の顔面を枕で叩きます。「ギャー!」という私の声に「たのしい」とつぶやきます。

〇全く分からないことを手探りを調べるから楽しい。さっそくバイクで出発です。今回は妻の恐い顔もないので堂々とトラバーユです。


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最終更新日2018-11-04
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