メタボルマン

米沢市

○今日はマークⅡの慣らし運転に行きました。

○距離が必要、さらに4,000回転以上には上げないという条件は、13号線が一番です。米沢くらいがちょうどいいかと南下します。

上杉神社
(上杉神社。米沢城です)

○私は以前「出羽国府を捜せ」ツーリングの記事で「ご先祖が東北人ではない」といいましたが、これが理由です。ここの殿様に明治まで仕えてます。つまりもともと新潟県からきたわけですね。今でもお寺は米沢にあり、なにかと不便です。上杉軍は戦国最強と言われた無敗の侍集団でしたが、関ケ原で西軍が破れてのち、この米沢に流されてきました。城下は小さく、上杉の将兵は収容しきれず、置賜各地に散りました。さらには江戸になってからも上杉家は士卒のリストラをしなかったため、実高の俸禄がもらえない「原方衆」が多く、うちの先祖もご多分に漏れず「原方衆」でした。まだ私が小さかったころ、本家には垣根の代わりにウコギが植えられており、鯉を飼う池がありました。また「槍蔵」と呼ばれる蔵がありました。上杉士族の質実剛健な暮らしぶりがよく分かる家でした。

○ちなみにこの米沢城は、鎌倉御家人長井氏の城でしたが、福島県伊達郡から伊達氏が侵略しこれを奪い、政宗もこの城で生まれています。米沢が生んだ偉人のNO.1は伊達政宗、でしょうね。本来は謙信の像は上越へ、政宗の像は米沢へ建てるのが本人達の希望でもあるのでしょうが、米沢も仙台も、観光のためにそれぞれ勝手に使っちゃってます。ちなみに政宗、「会津は取られても伊達郡と置賜郡は伊達家の故郷だからとらないで!宮城なんかいらないよ!」と最後まで秀吉に泣きついたようですがかなわず、一発奮起して仙台平野の開墾を行ったようです。結果なにもない大地に仙台市が誕生しました。人間、あきらめが肝心、頑張ればなんとかなるんですね。

○そんなことから、例えば福島に「茂庭」という地名があります。茂庭という地侍がいて伊達家に仕えていました。その後仙台に移り、移り住んでからもらった領地が、たぶん仙台の「茂庭」だと思います。このように、置賜から福島にかけての地名と仙台市の地名が重複するところがあり、面白いなあ、と思います。

○伊達政宗は「もう一度米沢を見てから死にたい」と死の床でつぶやいたといいます。また父の輝宗に至るまでの先祖の墓は、あえて置賜に残しています。本当は彼も米沢に埋められたかったんでしょうね。しかし、それは幕府が許しませんでした。戦国の異端児も死ぬまで望郷の念が捨てられなかった訳で、そういう意味では本当の意味での伊達家の城下町です。上杉景勝はそこまでの思い入れは当地にはなかったと思います。本命は上越なんでしょうね、やっぱり。ウチのご先祖も多分・・・越後で死にたかったんだと思います。でも見方をかえれば、この戦国末期の大移動のおかげで、日本人がよりグローバルになれたのも事実です。

○私も死ぬときはそう思うんでしょうか?全く実感がなく「世界中見聞してからどっかで野垂れ死に」が悪くない死に方か、と今は思うんですが、東日本大震災や熊本地震でお年寄りが「どんなに壊れてもここで死にたい」と多くの方が言ってるのを聞くと、私も最後は「山形を一目見てから死にたい」と願うのでしょうか。想像できませんが・・・老いとは、故郷とはそのような面も持つと考えます。

○さて、見慣れた米沢なんですけど、あんまり見るものがありません。結構観光客の皆さん来ますけど、なに見ていくのかなあ。米沢牛食べるんですかね。うらやましいですね。私は高くて食べられません。観光地のようであまり資源がない。結構つらい。なんでかって、やっぱり倹約してたから何もなかった、のでしょうか。でも、たまに行くといいですね。天気も良かったし。一応謙信公にも交通安全お祈りしました。ご先祖の雇い主ですから、無下にしてはいけない人ですね。


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